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大安寺① 【堺・街あるき】

南宗寺の敷地内から少ばかり歩いた場所へ移動。
次はこちらのお寺です。


大安寺



堺区南旅篭町4-1-4

例によって説明はこちら



大安寺は室町時代の初め、応永元年(1394)に後小松天皇の命により、徳秀士蔭(とくしゅうしいん)を開山に、東福寺の末寺として建立されました。
創建当時は環濠内の中心部に近い場所に位置し、寺伝では、二町四方の寺域と六つの塔頭(たっちゅう)を有する大寺院だったと伝えられています。
慶長20年(1615)大坂夏の陣の兵火による焼失の後、慶長年間(1648~1652)に現在地に移転したと伝えられています。
<大安寺パンフレットより>

入り口の山門横にあった看板、こちらの本堂内には見所の襖絵があるのでそれに由来したものでしょう。
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では入りましょう。

山門から本堂への道、綺麗に手入れされています。


歌碑がありましたが達筆すぎて(?)読めません。。。



それでは本堂へ、、、と行きたいところですが、本堂内は撮影等禁止です。
という事で説明のみで失礼します。

<本堂(重要文化財)>
重要文化財に指定されている本堂は、明治以前は「方丈(ほうじょう)」とよばれていました。
方丈はもともと禅宗寺院では僧侶などの住居空間でしたが、仏壇などを置くことによって次第に本堂として使われるようになった建物のことをいいます。
平成7年度から平成10年度まで行われた半解体修理工事では、屋根瓦銘や部材の墨書から、17世紀前半に建築された建物の部材を大半再用しながら、規模を拡張し、天和3年(1683)に現在地に再建されたことが分かりました。

本堂は、貿易商人として巨万の富を築き、晩年は豊臣秀吉に疎まれて没落したとされる堺商人・納屋(呂宗-ルソン)助左衛門の居宅を移したものと伝えられてきました。
建物の修理の結果、この建物ははじめからお寺として建てられたものではなく、もとは書院造の住居建築だったものを、大きく間取りを変更してお寺の方丈に改造していることがわかりました。
障壁画も前身となる建物となる建物に用いられていたものを現状の間取りに合わせたりして再用されています。
【納屋助左衛門(なやすけざえもん)・・・呂宋(ルソン)助左衛門】
は、戦国時代の貿易商人でフィリピンのルソン島などからの交易品『ルソン壷』などで財を築いたことなどから<ルソン>助左衛門と言われるようになったそうな。。。
ちょっと古いですが某NHKの大河ドラマ『黄金の日日』で(当時)市川染五郎(現・松本幸四郎)が演じていましたね~。

アジアの国々から様々な珍しい物を輸入し、当時の権力者であった豊臣秀吉に献上などしていたものの、あまりの豪勢な暮らしぶりが秀吉の怒りに触れ邸宅などの没収を受けることになるのですが、事前に察知した際に財産などをここ、大安寺に寄進してルソン(フィリピン)へ脱出したと言われています。

その時の『呂宗壷(ルソン壷)』などが寺宝として保存されています。

一説によると『ルソン壷』が宝物ではなく広く一般に使われる日用雑貨であったことから秀吉の怒りを買ったとも。。。

後にルソンからカンボジアへ渡り、再び豪商になったと伝えられています。



また、本堂内には重要文化財に指定されている『本堂障壁画』もあります。

本堂障壁画76面(附指定12面)は本堂の内部四室にわたって描かれています。
作者について、狩野永徳との伝承もありますが筆法や作風などから見て永徳とりも時代が下る17世紀前半の狩野派の作と考えられます。
桃山時代から江戸時代の堺の繁栄を伝えるほぼ唯一の資料として昭和56年に美術工芸品として重要文化財に指定されました。

本堂内は下一之間<鶴之間>、下二之間<百日紅猿猴之間>、室中、上間<西湖の間>、仏間、という風に区切られており、各部屋に障壁画があります。

【下二之間<百日紅猿猴之間>】

親子の群猿が百日紅の樹上で群れ遊ぶ様子を描いたものです。


【上間<西湖の間>】

正面に賓客を迎えるための上段を設け右脇に書院を備えたこの部屋は全体にわたり中国浙江省の西湖の風景が水墨画で描かれています。

(↑2枚画像は『堺市HP』よりお借りしました)



室内はそれぞれ障壁画の保存のために薄暗いためにちょっと見づらい感じがありました。
そのせいか(?)それとも保存の状態が悪いせいか(?)少々黒ずんでいるようにも・・・。
部屋中には入れないので外側の廊下部分からしか見れなかったせいかも!?
(でも、今の所、堺市の『こういった物』に対する保存の仕方は他の場所についても疑問アリ)





本堂内を見てから一旦外へ。
最初に入ってきた入り口の所から横へ行くと墓地部分があり、その先には『開山堂』があります。

宝永3年(1706)大安寺中興の大円長根(だいえんちょうこん)が築尾村(現・津久野町)の豪農・北村了貞の寄進により建立。





ちょっと説明が長くなってしまったので、続きの庭部分は次回。。。




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