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カンボジア①

以前、ゼミの課題で「アジア」のお題を出された時にカンボジアのアンコール遺跡群と遺跡修復に伴うカンボジアの経済復興についてレポートをまとめました。
なぜ、カンボジアを選んだのかと言えば、その時たまたまカンボジアのシェムリアップ(アンコール遺跡群)とベトナム・ホーチミンへ行く予定をしていたから、というだけの理由なのですが、レポートは真面目にやりましたので、それを含めて書きます。

レポートでは、カンボジアの歴史から始まって、現在の遺跡修復の状況、それに伴う遺跡エンジニアリングという考えまでをまとめたのですが、えらく長くなるので抜粋することにします。

《 資 料 》
インターネット;各遺跡の紹介ページ、外務省・アンコールワット国際調査団、外務省・各国・地域情報
        (カンボジア王国)、外務省・経済協力評価報告書、外務省・カンボジア援助協力実施体制評価、等
『東南アジアを知る―私の方法』鶴見良行;著(岩波新書)
『アンコール遺跡と社会文化発展』石澤良昭;監修、坪井善明;編(連合出版)
『週間 世界遺産31 かんぼっじあ・アンコール遺跡群』(講談社)

その他、カンボジアを訪問した際のガイドブック、地図、写真、自分の目で見たもの

レポートは2002年当時のものなので、資料その他2002年に調べた当時のものです。
その後、変更等ありますが、ご了承ください。
調査不足で間違いなどもあるかもしれませんが、素人のレポートですので温かく見過ごしてやってください。



①歴史
AD1世紀メコン川中流域に興った扶南国(フーナン)に始まる。

アンコール王朝の始まりは802年、ジャヤバルマンⅡ世が勢力を拡大し、カンボジアを再統一したことにより始まる。

以後、12世紀末には現在のカンボジア、ベトナム南部(チャンパ)、タイの一部(シャム)、マレーシア半島のほぼ半分までに至る最大領域を治める王国になる。

カンボジアを含むタイ、ベトナム、マレーシア、ラオス…この地域は長くお互いに侵略し、また侵略されて12世紀カンボジア最大支配の後1351年タイ(シャム)にアユタヤ王朝が興りカンボジアが占領され陥落し、19世紀初頭にフランスの植民地支配をされるまで続く。

フランスに植民地支配された事が皮肉にもそれまで密林に隠されていたアンコール王朝の遺跡が再び世に出るきっかけになった。
1860年にフランス人、アンリ・ムオがアンコール遺跡の調査を開始する。

フランス領インドシナ連邦の構成国となるが、その後日本軍がカンボジアに進駐、1941年にはノロドム・シハヌーク王が即位し、1953年にはフランスから独立し、カンボジア王国成立となる。

その後は良く知られている通りです。

1960年シハヌーク王が王位を父に譲り、自身は国家元首となるが、1970年には親米派のロン・ノル将軍によって国家元首を解任され、ロン・ノル政権により共和政へと移行していく。(クメール共和国)

1973年以降、アメリカの支援を受けた『ロン・ノル政権』と中国などの支援を受けた『民主カンプチア統一戦線』の2つの勢力争いがカンボジアを内へと導く。

1975年にはクメール・ルージュを中心とした『民主カンプチア統一戦線』がプノンペン入場し一旦は内戦の終結となるものの、ポル・ポト政権の極端な社会主義政策によりカンボジアの暗黒時代が始まる。
(シアヌーク殿下はこの時意見対立し北京に亡命)

ベトナムとの国境紛争が拡大。

ベトナムに支援された『カンプチア人民共和国』が樹立し、1979年カンボジア人民共和国が成立する。

東西冷戦、中ソ対立などが反映され、さらに内戦は12年にも及ぶこととなる。

1987年、シハヌーク殿下(三派連合)とフン・セン首相(ヘン・サムリン政権)の和平会議から交渉は続き、1993年、UNTAC監視下での選挙により現在のカンボジア政府が誕生する。

しかし、まだまだ問題は多く、特にポル・ポト政権下では4年間で200万~300万の自国民を虐殺し、多くの知識人も失われていた。
長い内線によって国は疲弊していたし、選挙により第一党となったフンシンペック党は行政能力に欠け、第二党に甘んじた人民党が実権を掌握する等のひずみがまだまだ残されていた。


現在、アンコール遺跡群を中心とした観光にも力を入れ落ち着きを見せてきてはいるものの、一般の国民全員がそれらの恩恵を受けるには至らず、まだまだ貧しい生活を送っている、また遺跡自体も内戦の爪あとが残され、修復も自国のみでは立ち行かず、外国の援助をうけなければならない。

世界遺産に認定されたアンコール遺跡群は確かにすばらしいアジアの石造建築であるが、その足元の生活を見なければいけないのではないだろうか。

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